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概要

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68るので、団扇であおいで看病人は忙しかったことであったと思う。第一に薬が充分に無いので病院を回ったり漢方薬や食用油、砂糖、鍋の底に着いている墨がよい説等の色々と噂があったが、自分は幸いに掛かり付けの医者が三日に一度往診して下さり懸命な看護を受けた。 見舞いの品でよくもらって食べたのはブドウとトマトでおいしくて嬉しかった、山羊の乳も親戚から時々もらって飲み、好きであったので、有り難く深く感謝して戴いた。 父の後日談であるが、左右の胸と顔全面そして左の頭部を火傷でやられているので、〔残念なことをした〕生きられないであろうと思ったそうである。 我が家の前隣の家では、父親は兵隊で広島市の部隊に出征中、娘の女子商一年生は学徒動員で二人が死亡し、父親は今もって遺骨もわからない状態で悲しまれておられる。 八月十五日の敗戦の玉音放送は居間に寝たきりのままで家族一同と聴き残念であった。窓ごしに青空を眺めると庭に出てみたくなるが、身体の前面を傷しているので、寝床で上を向いたままの状態で横になることが出来ない。大変に不自由な暮らしであり早く起きられないかと思った、両手の指をやられていたので箸を持つことが出来ず当分の間は食べさせてもらい一週間後にやっとスプーンが使えるようになった。二十日過ぎた頃から箸がもてるようになり少し楽になった。二十五日間は身動きができず寝たきりで非常に不自由な目にあって、もう二度と広島には出て行くまいとその時は思ったものである。 九月二十五日頃、江波の広商校舎に出頭するようにとの連絡を受けた。我々が被爆した皆実町の県師範跡の校舎は木造建であったので、倒壊してとても使用することは不可能であり、見に行く気にはならなかったが、戦争が負けたので陸軍兵器学校に取られていた江波の校舎は広島商業に返してもらったのだと理解出来た。後日、久しぶりの懐かしい学校に登校して運動場に集合した。友達と会っての最初の挨拶は「われは生きとったんか」「死んでたまるか生きとらあじゃ」で