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概要

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56穴があき、靴の表面はまだ奇麗で損傷がすくないのに底に穴があいて破れ履かれない状態であった。 朝の通常の通学路は、広島駅から猿猴橋と京橋を渡り、富士見町に出て鷹野橋通りより明治橋と住吉橋を渡り、舟入本町から学校までは特に二列縦隊で並んで歩き上級生に出会えば、「敬礼」と大きく挨拶の声を出さなければ学校で説教をされ、特に鷹野橋と学校の区間は各方面からの通学者が多く、警戒を要する危険地区であった。楽しい思い出は、京橋から近道として弥生町の遊郭のど真ん中を朝、縦断すると各家の玄関前は掃き清められて打ち水がしてあり、玄関内の横の壁に楕円形の写真額が二列に並べて飾ってあった。玄関前の横には、白い塩が三角に盛ってあって、静かな朝の格子戸が一杯に開かれていたのが印象深くよい気分で道を歩いたものである。 学校でのクラブ活動は当時、野球部は無くて柔道部と剣道部のどちらかに殆どの者が入部していたので、自分は柔道が好きであったので柔道の方へ入部した。放課後は武道場に行っては練習の毎日が続き、特に受け身の練習をくどくどとしごかれた、お陰で後日どこで転んでも現在も頭を打つような事は一度も無い。柔道部は先輩の説教が特に多いことで有名であった。最上級生のみ足に白いキャハンをして実にかっこよく、我々は国防色のゲートルを巻いて通学していたが羨ましく思ったものである。 昭和十九年春過ぎ校舎を陸軍兵器学校が使用する事となって、追い出されることになり移転先は、皆実町の比治山橋東詰で広島県師範学校の跡で木造建の古い校舎であった。県師範は広島市から疎開して校舎が空いており、一部二階建ての教室が平行に並んで屋根付きの渡り廊下で結ばれ黒褐色の暗い感じのする校舎であった。その北側に三角形のあまり広くない運動場があって東側には大きな楠木と講堂らしき建物があり、周辺には雑草が生い茂り誰もがうんざりと感じたものである。 学校移転が決まって、学生机や什器類等を江波から皆実町の学校に各自が手にもって運ぶ事となり、生徒机は椅子が連結しているので肩に担ぐと重すぎるし横