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概要

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42あったのでしょうか。壁に新しい工場の設計図と完成予定図の様なものが懸けてあり、其此から電気鋸の音が喧しく聞こえていました。多分当時は軍需関係の仕事をしておられたのではなかったでしょうか? と言うのは、当時軍需工場に勤める人だけ特配のあった澱粉とコンニャク粉を混ぜた様な、平たい焼き団子風のものを御馳走になりました。それから二人で剣道の胴、籠手等をつけて遊んだり、庭に掘られたコンクリート造りで、中にタンス等が収納された広い防空壕をみせて貰ったり、夕日が傾く迄、二匹の仔犬の様に遊んだのを覚えています。帰途、当時は病気の時以外は利用を禁止されていた市電にコッソリ乗って、夕暮れの比治山下から的場町までゴロゴロ揺られて帰ったのを記憶していますので、余程印象に残る一日であったと思います。 実は田中君とは八月の四日か五日の朝、最後に出会っているのです。場所は元安橋の袂で、時刻と場所から、私は小網町の作業場に、田中君は中広町の学校の授業日にあたっていた日ではなかったかと思うのですが、お互い複数同志の出会いでしたが、私と視線が合うと、あの人懐こい笑窪をつくって片手を挙げました。此の手紙の冒頭、私が田中君の顔を三十四年も経た今もハッキリ記憶していると書いたのは、此の時の出会いがしらの笑顔なのです。不思議な事に、その時の元安川の水嵩が多く、川の色が非常に蒼かった事が鮮明に記憶に残っており、恐らく八月六日前後は広島の川は大潮でなかったかと思っております。それが田中君の姿をみた最後でした。 被爆後、二ヵ月ぐらいして東雲小学校の一隅を借りて始った授業では、一年生三百余人の生き残りは四十名たらずだったでしょうか。その中に白滝君の顔はありましたが、田中君の姿はなく、その時やはり田中君は死んだんだなと思いました。 終戦後の混乱期の学校は、あるいはお兄さんも一緒に経験されたかと思いますが、子供の無邪気さと言うのか、残酷さと言うのか、原爆投下時、爆心地近くから九死に一生を得て脱出した同級生で、頭の帽子をかぶっていた部分を残し、その下部ぐるりが赤く盛り上