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概要

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20た。 死体はごろごろしていて、ところどころには、焼けたトタンがかぶせてあり、炭で名前が書いてありました。また、塀とか板にも、行き先なども書き記されていました。馬の死体もあって、目をかっと開き、腹ははち切れんばかりにふくれあがっていました。 比治山下では、国防婦人会の人たちが、米のご飯の大きなむすびの炊き出しをしていました。私もそのおにぎりをもらいました。昼飯も食べずに歩いて空腹だったのですが、いくら貴重な米のおにぎりでも、人を焼く匂いのなかでは、とても食べられませんでした。 大正橋を渡って、大洲、向洋、海田、矢野と、国道を歩いて帰りました。炎天下の道すがら、荷車に肉親の怪我人や死体を乗せて帰る人、箱車を引いて忙しく広島に向かう人、火傷の体を引きずるようにして歩いている人、それらの人たちの目は血走っていました。 家に帰ったのは何時頃だったか覚えていません。暑い、息苦しい一日だったことだけは忘れなれないです。矢野からは五人の同期生が通学していましたが、四人は数日後に亡くなり、生き残ったのは私ひとりです。 遺体も残さず、一瞬のうちに焼き殺された友達。熱線を受け、黒焦げになって死んでいった友人たち……。一人で平和公園を歩いていると、樹木の影から、あの日のままの姿で、ひょいと私の前に出てくるのではないかと錯覚します。 いまは、生き残った者の義務として、被爆体験を語る会の一員として平和運動に参加したり、原爆の絵を描いたり、語り部をつとめたりしています。 マレーシアへ行ったときのことです。日本の兵隊は、子どもをかばって抱きかかえ、うつぶせになっている母親の上着をはいで脱がせ、銃剣で母親と子どもを串刺しにしたとか、大勢の人を小屋に押し込め、火を放って焼いたとか、殺されるから死んだふりをしていたとか、日本兵の残虐きわまりない行為について聞かされ、私自身が侵した罪のようにいわれているようで、来なければよかった、と思ったりもしました。