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概要

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262は不可能であった。軍隊や郡部警防団の出動、日赤病院は焼け残って門前から被爆者でいっぱい、舟入から江波に通ずる電車道は急造の板張りの救護所に歩行の出来ない被爆者で満員。道路は人馬の屍であった。 それから連日の炎天続きで腐爛の臭気が充満、死体処理は石油をかけ炎天の中で金棒で火あぶりにする様はまるで地獄そのものであった。江波の射的場に死体と薪を交互に何段も積みあげてある処で数人の肉親の人がこの中におると言うことだが、さてどうするかと嘆息思案していた。どうにかして捜し出したいのが肉親の情だろう。太陽は巳に西に没せんとしていた。 友人の話によると、自分は家族が家の下敷となって頻りに救いを求めるその聲を聞きながらも、火の手が襲い来るのでしかたなしに、手を合せて許して呉れと言い残して避難した。今でもその聲が耳もとに残っていると。 生きるため僅かな米飯に副食物がないので塩をかけて喉を通したのもあの頃であった。屋根や戸障子は手仕事で修理をして、夏の内はどうやら凌いだが、冬になって枕辺まで雪が降り込んで来たことは忘れられない印象であった。 長男の死体を確認しないので、まだどこからか帰って来るかも知れないと凡夫心に待ちわびたもので三十年の今日でもその思いに変りない。 こうして被爆後の日常は苦難の日々であったが、それよりも最も心中深く刻みこまれたのは八月十五日ラジオを通じての玉音放送による終戦の報道で祖国の前途はどうなるか目も眩む思いであった。 進駐軍が来広した時は婦女子は一時恐怖におののいたものであったが左程のトラブルもなく経過し安堵したものである。 戦後三十年妻は原爆症の不安に戦きつゝも今六十八才の老境に入り医薬の厄介者である。他の子供達は家の陰で光線を受けなかったので原爆後遺症のないことは何より幸せである。 その後は只生きるためには、衣、食、住共に文字通り塗炭の苦を嘗めたものである。特に物資の不足時代から続いて、鰻上りの物価高には閉口したが生き抜く