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概要

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237 あの日てくれました。 被服廠には大勢の人が避難をして来ていました。私は目が潰れる位顔がはれて、動けなくなっていました。他の人と同じように倉庫のコンクリートの床に軍隊の毛布を敷いて寝かされました。意識のはっきりした人は、荷札に住所、名前を書いて枕元の毛布に取り付けてくれました。家族が探しに来ても顔では判別が出来ないからです。左の足元の方で熱にうなされながら校歌を口ずさみ「熱があるから作業を休んだんよ、」さぼったのではないとくり返し弁解している女学生らしい子がいました。右の方には背中一面大火傷をしたおばさんが、前かがみになってお念仏のように「痛いよう、痛いよう、」と泣いていました。 薬品も乏しく化膿したところには、はえが卵を生みつけ、うじ虫となって取っても次ぎ次ぎと湧いたようです。 「水をください、水をくれ、」と必死で水を求める人達、やかんの口から飲ませてもらったり、口が焼けただれている人は布に水を浸して一滴ずつ絞るようにして口の中へ落してもらっていました。 八月十五日に家族がリヤカーで迎えに来て私は幸いにも家に帰ることが出来ましたが、火傷につける薬はなく、どこから聞いて来たのか、胡瓜の絞り汁をつけ、その上から天花粉をつけ布をかぶせるのですが、患部にべっとりとついて、それを取り替える時の痛かったことは、何年経っても忘れる事が出来ません。 橋の所で別れた友人のお母さんが、自分の娘の様子を聞きに来られましたが、彼女達が川へ下りて行った事は言いそびれてしまいました。何故あの時、もっと強くあの人達の手を引っ張って一緒に橋を渡らなかったかと、六十年経った今でも、心のこだわりとなっています。 私達の学年は大半の人があの日、又その直後に亡くなっています。何十年も生きのびた友人の中には、顔面大火傷を受け父親と暮していましたが、一九七三年に乳ガンを発病、肺へ転移して三年後に亡くなりました。又校舎の陰にいて殆ど無傷だった人は二十数年後に発病、十数回の入退院をくり返しながら一九八〇年