ブックタイトルgakuto

概要

gakuto

222てやると、いかにも嬉しい、といった笑顔をよく見せてくれたものでした。あの八月六日の朝、綾子は、明日から出なければならない総軍司令部の通信の暗号を覚えるとか言って、窓際に向かった机で一生懸命勉強していました。私はお洗濯をすませて、水屋から一握りの大豆を紙に包むとそっと綾子の机の端においてやりました。本から離した目をその紙包みに移すと、にっこりと笑って私を見るのです。その嬉しそうな顔、今でもはっきりと覚えています。それから三十分後、あの恐ろしい原爆が投下されようとは。　「ピカッ」と光った瞬間、私は後の箪笥の横に身をかがめていました。　「ア、お母さん」そう言って、立ち上がって私をふり返った綾子の姿が私の瞼に残った最後のものでした。何も意識しない何分間、私は顔を手で覆って立ち上がっていました。それから山のように崩れ落ちた家の残骸を這い上がって外に出ました。「綾子、あら綾子がいない」とっさに私が振り返った時、壁や大きな柱の下で、「苦しいー苦しい」と、かすかに叫ぶ綾子の声を聞いたのです。　「早く助けよう、早く助けなきゃ」私ははやる心に力一杯柱を動かそうと押してみてもびくともしません。よくみると、積み重なったはるか下に綾子の足先と小さな手の指がピクピク動いているのです。「誰かに助け出して貰わなきゃ」私は急ぎ足で、避難される割合に元気そうな人をつかまえては、拝むように頼みました。何回となく頼んでやっと来て貰った二人の兵隊さんが「これはとても助け出せない」と言って急ぎ足で去って行った後、ただ一人とり残された私は紅蓮の炎の中に、何時までも去り難く立っていました。　綾子の声はもうありませんでした。私の力では、どうにもならない大きな柱の下にあった綾子は、その時すでに、私の懐に帰っていたに違いありません。広島の夜空をこがすこの炎を、長寿園の入口の小高い所から、うつろな目でいつまでも見守っていました。「綾子」「綾子」とうとう死んでしまった。やっと我にかえると、何とも言えない悲しみ、助け得なかった悔恨で胸もはりさけんばかりでした。