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概要

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177 被爆弁当で紫斑?どさに改めて驚き、すぐ床をとってくれた。腹が減っていたので持って帰った弁当を食べ、夕方までウトウトしたが、恐しい夢にうなされた記憶がある。心配していた父も、暗くなって元気で帰って来た。父は広島別院裏の電車内で被爆したのだが奇跡的に無傷で、負傷した乗客らを助け出したあと帰宅した由で、「ご先祖の加護のおかげ」と、手を合わせて喜び合った。 当時、わが家に東京から疎開していた浦君は一中の一年生で、夜遅く全身火傷で帰って来たが、一晩中水を欲しがりながら帰らぬ人となった。彼の父は海軍の軍医で、可愛い息子に注射一本打ってやれなかったと残念がっておられた。わざわざ死ぬために疎開した結果となり、ヤカンの水を口飲みした時、焼けただれた皮膚を水差し口に残したまま、満足そうな静かな終わりだった。 被爆直後から芸備線で次々に逃れて来るおびただしい負傷者は、いずれも筆舌に尽せないほど凄惨で、自宅裏の三篠川の河原は水を求めて死ぬ直前の人、ぼろぼろの衣服でさ迷う人と、まさに生き地獄そのままだった。三日目あたりからは、河原一帯が火葬場と化し、悪臭と蝿の攻勢で、猛暑の季節ながら窓を閉めなければ耐えられぬ程だった。 柏原先生は被爆の直前、わが家の隣りに疎開しておられたが、被爆の翌日から生徒や同僚の先生方の安否をたずねて連日、市内を歩き回られ、責任感とご苦労には頭の下がる思いだった。 私の火傷は背中が酷かったため、夜も昼もうつ伏せになったままで、体を自由に動かせぬことがいかに辛いか痛感した。蚊や蝿の攻勢を避けるため、蚊帳を吊った中で赤チンと油の治療を続けたが、それでも十日ぐらい後、傷口のかさ蓋の周囲がむずかゆいので注意してみると、小さなウジがうごめいていたのには驚いた。今では想像も出来ないことである。二週間を過ぎた頃からやっと上向きに寝られるようになり、元気になったので学校へ行ってみることにした。 八月の末だったと思うが、芸備線で広島に出てびっくりした。駅前から見渡せば、一面の焼け野原、脱線し焼けたままの電車、途中の橋という橋は哀れに欄干